正行寺の歴史
創建期
御開基 了圓法師 墳墓
本願寺第十二世 教如上人
正行寺は今から430年近く前の文祿2年(1593)2月10日に創建されました。
開基は了圓法師と言い、現在の熊本、肥後国阿蘇家一族の武将の家柄に生まれ、竹原主水正種善(たけはらもんどのしょうたねよし)という武将でした。
戦国時代、阿蘇家は島津勢と長きにわたる戦を続けていました。竹原主水正種善は、その戦に敗北し、筑前二日市(現在の福岡県筑紫野市)に辿り着きます。そして、戦乱で多くの家臣や仲間が亡くなって無常を感じ、出家したと思われます。
天正11年 (1583)には、法名を了圓と号し、当時の本願寺の御法主であった教如上人の弟子となりました。
その後、二日市の旧家大賀家(現在も続く造り酒屋)の先祖より寺域の寄進を受け、正行寺の坊舎を建て、文祿2年に、本願寺よりご本尊の木佛と寺号「正行寺」を申し受けました。
また、寛文九年(1662)、第三世玄周師は、本願寺15世・常如上人の代に大谷派に帰属しました。
中興期
竹原 嶺音師
開基以来12代の住職が継承し、第13世住職・竹原嶺音に至ります。
嶺音師は、明治9年生まれ。明治期、日本の国の変化と同様に復興の気運に燃えていました。嶺音師は、この時期に真宗中学(東京)で学びます。
明治40年、ある重大問題にぶつかり、『大無量寿経』の「遇斯光者三垢消滅」の一文に触れて、真実信心に覚醒します。
そして、嶺音師は、正行寺を信仰中心に現実問題を解決していく聞法道場として改革され、開放されました。その道場には多くの同行が集い、毎朝の勤行会座や年に数回の講習会などで聞法に励むようになり、現在の正行寺の基の形が作られました。そして、嶺音師は、「正行寺中興の祖」と仰がれるようになります。
昭和26年(1951)11月12日、76歳で往生を遂げました。
著書には『入信録』、『現実の更生』、『王舎大城』、『帖外御文鈔』他多数、大行院語録に『一枚法語』があります。
恵契尼の信心継承
恵契尼と一緒に
恵契尼(右)と崇徳法師(左)
大正14年、嶺音師の最初の弟子、野中美代(恵契尼)が入信します。
入信後、直ちに、信仰の喜びを親族や友人に伝え、その結果、多くの信徒が次々と生まれました。
また、正行寺の近くに家を建て、その家を開放し、正行寺におみえになる聞法者の宿舎として迎え入れました。これが現在の「多屋」が形成される端緒となりました。恵契尼は、師匠の命を奉じて、半世紀以上、本山大谷家に念佛の供養を捧げ、御血脈と正行寺との深い法縁の絆を結ばれました。
信仰の深まりと諸施設の整備
竹原嶺音師往生後は、恵契尼を中心として、信仰の火は益々燃えさかり、多くの門信徒の為に、本堂を始め礼拝、修行の場としての諸施設が、徐々に整えられました。
その後、現住職のもと、新たに同行が各地に生まれ、信心相続の拠り所として、東京、京都、大阪の他、ロンドンにも道場が設けられました。
また、海外との交流も盛んとなり、最近では、韓国や中国との交流も深まっています。
雅 楽
雅楽はシルクロード、中国、朝鮮半島を経て、佛教と同時に伝来し今に至っています。その音色は喜怒哀楽を超えた佛様への感謝の響きといわれています。当寺では、報恩講、永代経、彼岸会などの法要で奏されます。
当寺の雅楽への取り組みは、第13世竹原嶺音師によって始まりました。嶺音師は、第二次大戦末期、戦火が激しくなる時勢に、このままでは伝統ある雅楽が消滅するのではと憂いました。そして、物資が不足する最中、各方面に依頼して、笙、篳篥、龍笛、太鼓、鞨鼓、鉦鼓の雅楽器一揃を購入し、保存しました。
終戦後、それらの雅楽器を用いて、嶺音師の願いを受けて門信徒が修練を重ね、正行寺「雅楽部」が発足。法要奉納楽を命として研鑽してきました。
メンバーは正行寺の門信徒を中心に、延べ百人以上となりました。
平成元年には、近隣の春日市に正行寺春日山雅楽御堂が建立されました。雅楽御堂とは、雅舞楽の習得を目的とする舞楽台や火焔太鼓を常設した御堂です。
ここを拠点に「正行寺雅楽部」は、広く門戸を開き、宗派・宗教を超えた「筑紫楽所」と発展しました。
現在では、宮内庁楽部の楽師方の指導を受け、時には各界からの招聘にも応じつつ、如来聖人への、雅舞楽奉納を中心に活動しています。
海外交流
正行寺には、外国から多くの参詣者や滞在者をお迎えしました。
特に近年は英国の道場の開設や、中国や韓国との留学生の交換など、国、宗教、人種を超え精神的な交流が活発になっています。
英国
ロンドンには、正行寺の道場、三輪精舎(Three Wheels)が開設されています。その発端は、ロンドン大学と一正行寺門徒との交流でした。
正行寺内で青春期を過ごした方が、英国に赴任し、御縁のあったロンドン大学の総長に、子どもの頃から心の支えになった正行寺の教えや師との出遇いを語りました。それを聞かれた総長は、師弟の出遇いに関心を持たれ、正行寺を訪問されました。
その後、交流が深まり、ロンドン大学内の幕末期の薩長の日本人留学生記念碑落成式での雅楽部の招聘や留学生交換などが実現しました。
同時に、日本から常勤の僧侶が赴き、英国人も交えた佛法聴聞の座が始まりました。親鸞聖人の教えが広まるにつれ、ロンドン道場設立の機運が高まり、Three Wheels(三輪精舎)が建立されました。
三輪精舎は、歴史あるレンガ作りの住宅で、窓から望む裏庭には、日本式石庭が英国内の材料を使って建立されました。造園作業は、ロンドン大学のジョン・ホワイト副総長が推進役となって日英有志の奉仕で行われ、国や文化を超えた「相違の中の調和」の象徴として完成しました。
1997年初夏、入佛式と石庭の落慶法要が、日英関係者150名の参詣を迎えて営まれました。
現在では「ロンドン会座」や、「歎異抄勉強会」、「瞑想(座禅)の会」など、現地の方々が参加する行事を定例で開いています。
また、春休み期間には、日本の子ども達が海外を二週間体験するスプリングスクールを現地の方々の協力のもとで開催しています。言葉も食事も文化も、日頃の当たり前とは全く違う環境で、両親の愛情も当たり前でなかったと感謝に気付く学生達の姿に会わせてもらいます。
◦客死留学生墓所護持◦
幕末期、薩長から英国に留学し、明治維新の礎になった方がおられました。その中で、異国の地で病に倒れ、客死した4人の若者がおりました。
三輪精舎では、この客死留学生の墓所を護持し、また支えられたウィリアムソン教授夫妻を顕彰しています。
◦日英和解の会◦
第二次世界大戦時、日英は敵対し、ビルマ戦線で戦火を交えた歴史があります。その双方が六十年以上を経て、和解の会を三輪精舎で開いています。ビルマに出征されていた在英の元日本兵の方が、英国軍人の家を訪ね、敵味方を超えて、恨むことなく和解し、共に祈ろうとはたらきかけ、実現しました。
その後、同じ場所で敵味方で戦った元兵士同士がその会で互いに握手し、和解した姿が忘れられません。
韓国
佛教伝来のご恩の国、韓国との交流は、長年の念願でありました。
その願いは、すでに戦前から韓国と交流されていた富山の教願寺の故釜田恒明師のお取り次ぎのお陰で実現しました。その後、釜田先生亡き後は、直接の交流が始まりました。
特に、ソウルの九龍寺様や望月寺様とは、相互に参詣団が行き来し、雅楽奉納や合唱団招聘、留学僧交換も行われています。九龍寺や望月寺のご住職方は、在家仏教の実践としての正行寺僧伽との出遇いを喜ばれ、真実の国際交流の一端を果たしています。
正行寺春日山雅楽御堂には、韓国から贈られた金剛宝塔や、儒学の偉人「李退渓先生顕彰碑」などが建立設置され、韓国の仏教や儒教との交流も深まっています。
また、文禄・慶長の役の後、日韓の橋渡しをされた韓国人僧侶・四溟堂松雲大師を顕彰し、毎年8月26日の御命日に法要を行っております。